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[アーカイブ] 池田游達・蒼圭さん|クリエイターズファイル

南丹地域|京丹波町

本記事は、2020年度にWEBサイト【京都府地域文化創造促進事業】内「クリエイターズファイル」に掲載したアーカイブ記事です。

「鹿革游達飾鞠 兆(しかがわ ゆうたつ かざりまり きざし)」

アトリエから仰ぎ見た美女山。視線を遮るものがなく、美しい稜線を堪能することができる。

京丹波町にある道の駅、丹波マーケスの裏手にそびえる美女山。美女が横たわる姿に似ていたとも、美女の眉のような形をしていたとも伝わるその山の麓に、けまり鞠遊会を主宰する池田游達さん、蒼圭さん夫妻の自宅兼ギャラリーと工房があります。
ともに京都市西京区の出身。游達さんは少年時代から野球に打ち込み、実業団チームに所属していましたが、20歳で野球を断念。そんな時に出会ったのが「蹴鞠」でした。もともと球技が好きだったこともあり次第にのめり込み、プレ-するだけにとどまらず鞠を研究するようになります。

鞠づくりには幾つもの壁がある、と游達さんは言います。江戸時代の京都には、鞠を作る鞠師の工房が数軒ありました。しかし互いに競い合っていたために、その製法については秘伝とされ資料が全く残されていないのです。手掛かりとなるのは、その道50年の先輩から伝え聞いた「3歳半から4歳の雌鹿の皮」を「糠(ぬか)と塩で揉んで」「半鞣(はんなめし)にする」というわずかな口伝だけでした。

鞠の出来、不出来は、蹴鞠の作法に大きく関わります。なぜなら、鞠が違えば蹴り方もまた変わってしまうからです。したがって、伝統的な製法で作られた鞠を復活させることは、本来の蹴鞠文化を保存し、未来へと伝承していくことにつながります。しかし、今の日本で鞠に適した半鞣の鹿革を手に入れることは困難でした。

およそ30年もの間、半鞣の鹿革を入手する方法を模索していた游達さんに転機が訪れます。近年、野生鳥獣による農作物被害が深刻化しているため、捕獲体制が強化されたことに伴い、野生鳥獣の食肉活用が注目されるようになりました。鹿肉のあるところには、鹿皮もあるはずだ。游逹さんは、2017年3月8日の京都新聞に掲載された「猟師直伝 ジビエの極意」と題された小さな記事を手掛かりに、京丹波町の猟師、垣内規誠さんのもとに訪れ、鹿皮提供の協力を取り付けました。そして同年10月、鞠づくりに専念するため京丹波町に移住しました。

製図した二枚の鞠革(半鞣しの鹿革)を目打ちしているところ。円形の二枚の革を細い革で繋ぎ合わせ、大麦を詰めて球形に伸ばしていく。

游達さんが復元した半鞣の鹿革鞠。その後ろに飾られているのは、「鳥獣人物戯画」の蹴鞠のシーンを蒼圭さんが模して描いた作品

半鞣の鹿革の鞠は、普通に鞣された鹿革の鞠とは蹴った時の感触や音が異なります。半鞣独特のしなやかさと反発力があり、また革の厚みが薄いため非常に軽く、「一段三足(いちだんさんそく)」*の蹴鞠の作法に適しています。試行錯誤の末にようやく復元することのできた鞠を蹴った時、「3歳半から4歳の雌鹿の皮」を「半鞣にする」という口伝の真意が理解できた、と游達さんは話してくれました。

* 一段三足(いちだんさんそく)」とは、①受取鞠(うけとるまり)、②手分(てぶん)の鞠、③渡す鞠、の3つを1セットとする蹴鞠の作法のひとつ。自分のところに飛んできた鞠を、すぐに蹴り返すのではなく、まずは①トラップし、②自分のところに軽く蹴り上げてから、③相手に大きく蹴り返すことが基本とされています。

 

鞠の復元に成功した游達さんの次の目標は、鞠を単なる道具ではなく、工芸品や美術品の域まで高めること。そして、蹴鞠文化をさらに普及させ、次の世代に伝承していくことです。「蹴鞠には、宮廷文化というイメージが強いと思います。しかし、江戸時代には庶民にも親しまれていた大人のスポーツなんです。」池田さんご夫妻は、京丹波町を拠点に、子供から年配の方まで誰もが自分の体力にあわせて楽しむことのできる生涯スポーツとしての「KEMARI」の普及と、伝統文化としての「蹴鞠」の伝承に取り組んでいます。

地域の人たちに蹴鞠に親しんでもらおうと企画した「けまり体験会」の様子。

 


池田游達、蒼圭
けまり鞠遊会(きくゆうかい)主宰。蹴鞠保存会に(游達さんは40年間、蒼圭さんは10年間)在籍したのち、途絶えていた古来の工法での鹿革鞠を復活させるために京丹波町に移住。けまり鞠遊会を創設し、蹴鞠のさらなる普及のために活動している。


取材日|2020年6月24日
取材、文章|宮下忠也(京都府地域アートマネージャー・南丹地域担当)
写真提供|池田游達、蒼圭


 

(記事執筆:宮下忠也(京都府地域アートマネージャー・南丹地域担当))